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お店ラジオ 2024/05/02 2024/05/02

ミスターほっかほっか亭の新しい挑戦

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「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を再編集したものです。

今回のゲストは、大学卒業後「ほっかほっか亭」のフランチャイズオーナーとして起業、その後、「ほっかほっか亭」がダイエー傘下に入るとダイエーへ入社し、“ミスターほっかほっか亭“と呼ばれる。退社後ゆで太郎の水信社長と出会いをきっかけに、自ら「ゆで太郎システム」を創業し、郊外型ゆで太郎の店舗拡大やもつ次郎との併設など新しいチャレンジを続ける、株式会社ゆで太郎システム 代表取締役 池田智昭さんです。

「ほっかほっか亭」のフランチャイズ店の開業から「ほっかほっか亭」への転職、ゆで太郎水信社長との出会いと、ゆで太郎システムの設立、そして、フランチャイズ展開のためのマニュアルづくりと教育システム。郊外型蕎麦屋の店舗拡大と、革新的なもつ次郎との併設型店舗の展開など3回に分けてお話しいただきます。

第1回は、ほっかほっか亭から始まったビジネスキャリアとゆで太郎との出会いについてお送りします。

 

この記事の目次

 

キャリアスタートはお弁当チェーン

私は元々、お弁当チェーンのフランチャイズ店を経営していました。大学時代は教員になろうと思い教員免許を取得しましたが、教育実習に行った後で嫌になってしまい、教員になるのを辞めました。そして、どうするか悩んでいるときに、先輩から「ほっかほっか亭という弁当屋を知っているか?」と言われました。

当時、増え始めたお弁当屋で、260円の海苔弁が美味しいとの評判を聞いて食べてみたのですが、その海苔弁が非常に美味しかったのです。感激した私は、初期投資がそれほど大きくなかったことや共同で始めるため資金的な負担が少なくて済みそうなことから、「ほっかほっか亭」のフランチャイズを始めることにしました。ですから私は、大学卒業後企業に就職したのではなく、いきなり独立することになったのです。

そして、私が経営するお弁当屋が4店舗に増えたところで、ほっかほっか亭がダイエーグループ傘下に入る話が持ち上がりました。私は、そのタイミングで「ウチで勉強しないか」「手伝ってもらいたい」と、ほっかほっか亭から声をかけていただき、お世話になることにしました。当時のほっかほっか亭は約500店舗ほどだったと記憶していますが、毎年100店舗以上の店舗が増えていた時期でした。

 

お弁当屋でのキャリア形成

ほっかほっか亭での経験は、私にとって大きな成長の機会でした。入社後、私はスーパーバイザーとして、FCの店舗を回り指導を行う役割を担いました。ポスターの貼り付けや店舗での手伝いなどの作業も行っていました。私自身がオーナーを務めた経験があり、店舗運営に関する知識が豊富だったことから、あらゆる業務をこなすことができましたので、店舗からは非常に喜ばれました。

その後、わずか1年で北関東事業部長を任され、その後東京に戻ってからは部長に昇進し、最終的には取締役本部長となりました。この時期には、年間100店舗の開店にも携わっており、時には「ミスターほっかほっか亭」と呼ばれることもありました。

ほっかほっか亭の出店方法としては、ロードサイドで土地を借りて建物を建てる方法で、この方法は償却費が高くなりますが、建物のデザインや配置に自由度があり、多くのメリットがありました。しかし、後に経営方針の相違などから2003年に退職することになりました。当時、およそ3,000店舗が展開されていたと記憶しています。

 

弁当屋からの転身とゆで太郎との出会い

私は退職して迷いなく“ゆで太郎”へお世話になったわけではありません。ほっかほっか亭にお世話になっていましたので、退職後に弁当屋をやる訳にはいきません。

弁当屋と競合しない飲食関係で何か良いものがないかと色々な方へ相談したところ、たまたま、蕎麦屋の運営の話を2ついただきました。そして、お話を聞いて、蕎麦であればゆで太郎が良かったと思い、創業者の水信社長へ連絡しました。そして、「そばを教えてください」と、水信社長にお願いしました。ゆで太郎はその当時30店舗ほどだったと思います。

ゆで太郎の創業者である水信さんは、元々集団就職で上京してきて、青山の蕎麦屋で働いていました。彼は蕎麦屋の職人としてスタートし、将来は独立したいという思いを抱いていましたが、蕎麦屋での独立には15年から20年の修業が必要で、その間は独立させてもらえません。
そこで、彼は一通り蕎麦の技術を身につけた後、蕎麦屋を開くためにお金を貯めることを決意し、ちり紙交換や廃品回収などの仕事をして、500万円を貯めましたが、その金額では蕎麦屋を開業するには不十分であることに気付き、代わりにほっかほっか亭のフランチャイズを開業することにしたのです。当時、私は彼と面識はありませんでしたが、私がほっかほっか亭で働くことになった時に、彼も同じ場所で同じ時期に研修を受けていることがわかり、非常に気が合いました。

 

ゆで太郎の興り

その後、彼はほっかほっか亭のフランチャイズを辞め、大田区の大森で普通の町蕎麦のお店を開業しました。そして、彼がお店を4店舗まで増やした時に、近所に小さな蕎麦屋ができました。彼の面白いところなのですが、彼はそのお店を見て、立ち食い蕎麦屋を始めようと思ったそうです。

町の蕎麦屋を経営している人は、立ち食い蕎麦屋を馬鹿にし、「あんなものは蕎麦ではない。」と言われることが多いのですが、水信さんは自分自身がほっかほっか亭というチェーンの弁当屋を経営していたため、そうした感覚はなく、蕎麦屋をきちんとビジネスとして見ていました。そして、1994年に立ち食い蕎麦屋である“ゆで太郎”を出店しました。

水信社長は面白い人で、蕎麦屋を始めた理由を聞いてもわからない、ゆで太郎の名前の由来を聞いてもわからない、青い看板の理由を聞いてもわからないと言うのです。ただ、看板の文字も飲み友達の書道の先生が書いてくれたのだと、しかも、どこの誰だかわからない先生が勝手に書いたのだと教えてくれました。

 

ゆで太郎への転職とチェーン化の可能性

私がほっかほっか亭を退職し、水信社長と会ったは2003年で、その時にゆで太郎はオープンして10年目を迎えていました。水信さんから、「入社して手伝ってくれないか、会社は任せるから副社長をやってくれないか。」と言われましたが、突然の言葉に私は即答できず、「一度見せていただけますか?」と伝えました。

すると彼は、全店の売上や損益計算書をFAXで送ってきました。30%ほどの原価で、人件費も少ない数字を見て、私はこれは良いビジネスだと感じました。

その後、一番繁盛しているお店でアルバイトとして働くことにしました。朝から玉ねぎの皮を剥く作業をしながら店内の様子を見ていましたが、最初の2時間で限界を感じてしまいました。

なぜなら、店長が非常に多忙で、これは素人にやれる業務ではないと感じたからです。しかし、2時間ほど見ていると、店長がスタッフに指示をせず、全ての業務を一人で行っていて、スタッフは暇そうにしていることがわかりました。
店長が働いている時間に他のスタッフは休憩を取っていたり、煙草を吸っている人もいたのです。私はこの状況を水信さんに報告し、「私がやるのであれば、スタッフを解雇する必要があるかもしれませんが、どうでしょうか?」と提案しましたが、水信さんは「それは嫌だと」はっきりと言われました。

私はチェーン展開可能な飲食ビジネスを目指していたので、蕎麦屋を見るときにはその視点で見ていました。ゆで太郎は麺を作るという特殊な作業はあるものの、ほとんどの作業はマニュアル化でき、チェーン展開できると考えました。

 

第1回は、ほっかほっか亭から始まったビジネスキャリアとゆで太郎との出会いについてお送りしました。
第2回は、ゆで太郎とゆで太郎システムやチェーン化のためのマニュアル化と人材育成についてお送りします。

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