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「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を未公開放送分も含めて再編集したものです。
#25 売り上げ支援で街を活性化する地方創生のカリスマ登場
#26 地方での開業、明暗を分けるのは掛け算!?
今回のゲストは、一般社団法人エリアイノベーションアライアンス代表理事で、内閣府地域活性化伝道師である木下斉さんです。高校生のときから地方の街づくりに携わってきた木下さんの型破りな戦略を、豊富な事例と共にお届けします。
第1回は木下さんが社長になった経緯と、立ち上げ期の悪戦苦闘についてご紹介します。
この記事の目次
- 地方の会社と協力して、街を変える
- 「地方の会社と合弁で街を変える会社を作る」とは?
- 海外では自治体よりも不動産オーナーが街づくりを推進する
- 高校時代に商店街での活動をスタート
- 東京はこれから再開発だ、という時期だった
- お金がない中で人を呼ぶためのイベント「空き缶拾ってハワイに行こう」
- イベントは大反響、全国で真似する商店街が続出
- 全国の商店街メンバーとオフ会、そのまま会社設立
- 根本的な問題を無視した結果、全く儲からず
- 海外の事例をリサーチし、活路を見出す
- 商店街から公官庁、シンクタンクまでを巻き込み多数のプロジェクトを推進
- 会社の財布は潤うも、大げんかして社長辞任
地方の会社と協力して、街を変える
僕は地方の企業と合弁形式のアライアンスを構築し、地域の経済再生に資する事業を開発・推進する取り組みを行っています。この取り組みには、北海道から九州まで20ほどの地域が参加しています。
こういった活動していると、どの地域でも大体同じような問題に直面しており、政策として間違っているものも目につくようになってきました。それらを各地域で連携し、レポートにしてまとめて発信し、政策立案していくための団体として設立したのがエリアイノベーションアライアンスです。
「地方の会社と合弁で街を変える会社を作る」とは?
「地方の会社と合弁で、街を変えていくための会社を作る」とはどういうことかをまず説明します。例えば、商店街の再生を行う際、街に点在している空き物件を買って再生するという事業を仕掛けていきます。そこで、最初に、街の物件を多く保有している不動産会社と、建築会社、工務店など、地元でオペレーションに関われる会社5社くらいに、資本を拠出してもらい合弁会社を設立します。
何らかの施策を仕掛けていくためのメンバーを、初めから仲間にしてしまうということです。こうすることで、よりスピーディーに、たくさんのことが仕掛けていけるようになるのです。
というのも、街が活気付き、土地や建物が人気になり価値が上がると得をするとのはそれらの不動産のオーナーです。なので、こういった不動産会社にとっても、街づくりに積極的に参加するインセンティブがあり、この形態が成り立つのです。
海外では自治体よりも不動産オーナーが街づくりを推進する
先に述べたように、その物件の人気が出ると不動産オーナーは黙っていても得をするということもあり、アメリカやヨーロッパでは自治体よりも不動産オーナーが街づくりをやるのが一般的です。
元々日本では戦後にあまりにも景気のいい時代が続いていたので、それほど頑張らなくてもお店はどんどん入ってくるような状況でした。しかし、今はその時代と比べると、どんどん衰退が進んでいっています。一方で、そんな時代変化の中でも、不動産のオーナーは景気が良かった時代とスタンスを変えず、家賃を下げなかったりするのです。そうすると、誰もテナントが入らなくなってしまうという事例が続出しているというのが現状です。
こうなってから、どうにかしてほしいと役所に泣きくオーナーが多いのですが、“まずはスタンス含め、オーナー自身が変わらないと始まりませんよ“と言うのが、僕の事業を推進していく上で前提となる考え方です。
高校時代に商店街での活動をスタート
この活動の元になったのは、高校時代の体験です。僕は早稲田大学の附属高校に通っていました。大学受験がないということでこの高校を選んだのですが、その分圧倒的に違うことを経験しないと意味がないと思い、学校の外で活動し始めます。
そんな中、高校一年生の秋ごろに早稲田の商店街の取り組みを見つけて、連絡して関わるようになりました。
東京はこれから再開発だ、という時期だった
1998年当時は東京の商店街にとってどん底の転換期でした。それまでは発展しすぎた東京のさらなる発展を制限するような法律があり、都内の学校もどんどん廃校になるレベルの過疎化が起こっていました。
そんななかで、ようやくタワーマンションなどの超高層建築の許可がおりて、いよいよここから再開発だ、という機運が高まっていた時期に、商店街の活性化事業に携わることになります。
お金がない中で人を呼ぶためのイベント「空き缶拾ってハワイに行こう」
早稲田の商店街でも活性化事業をやろうということになったのですが、任意団体だったこともありお金はなく、年間の予算は60万円ほどでした。
よって自分達でお金を稼ぎながらお客さんに来てもらわなくてはならなかったので、夏休みにエコサマーフェスティバルと言う環境を切り口にしたイベントを開きました。これは街中のゴミを持って来てもらうためのイベントです。
全国の環境機器のメーカーがたくさん誕生していた時期だったので、それらの会社に計測機器を持ってきてもらって、ゴミの何%が再利用可能かを測れるようにしました。そして持ってきてもらったゴミを計測し、それに応じて賞品を出し、その一等賞をハワイ旅行にして、「空き缶拾ってハワイに行こう」と言うキャッチコピーをつけました。
イベントは大反響、全国で真似する商店街が続出
すると街の人たちも「どうやらゴミを持っていくと再利用されて、運が良ければハワイにいけるらしい」ということになり、家の中どころか街の外のゴミまで拾ってくるような人も現れる騒ぎになりました。そこで焼き鳥を売ったり、どんちゃん騒ぎをあげることで儲けていました。このような企画をシーズンごとに打ち出していました。
他にも、空き店舗に「空き缶を入れると何回かに一回当たりが出る機械」を入れて、当たりとして中華料理屋で使える餃子一皿無料券などが出てくるようにしていました。これは話題になって、全国で100ヶ所ぐらい真似するところが現れました。
全国の商店街メンバーとオフ会、そのまま会社設立
こうして全国で僕らの活動を真似する団体がたくさん出てきたので、その人たちとネットでやりとりをしていました。するとみんなでオフ会をやりたいという話になったので、1999年の6月に全国商店街リサイクルサミットを早稲田商店街でやることにしました。
地元の信用金庫の3階の会議室みたいなところでやったのですが、テレビ取材が3件入って新聞社もいっぱい来ました。夜は飲み会になって、とても盛り上がりました。すると酔っ払ったおじさんたちが「みんなで会社を作りたい」と言い出しました。
そのまま会社を作る流れになったのですが、誰も何も準備をしなかったので、結局僕が「株式会社商店街ネットワーク」という会社を作り、社長になったというわけです。
根本的な問題を無視した結果、全く儲からず
会社を作ったのはいいものの、最初の1、2年は全く儲かりませんでした。初めは北海道のカニを九州の商店街でも取り扱えるようにしよう、それをお互いやりとりしよう、のようなことをやっていたのですが、これがうまくいきません。
当時の地方商店街はチェーンストアや大型のショッピングモールの影響で衰退し始めていて、従来の商売をアップデートしなくてはいけないような状態だったのにも関わらず、それをないがしろにしてしまったのです。
店主に魅力がない、お店自体が汚いとか、根本的な問題がたくさんあるのに、商材さえ良ければ売れるはずだという思いこみがあったのだと思います。
海外の事例をリサーチし、活路を見出す
これでは会社の売上が全く立たないので何か違うことをやらなくてはと思い、海外の街を再生しているケースをたくさん調べました。するとやれる商売がたくさんあることに気がつきました。
ショッピングモールでは、消費財のメーカーや映画がプロモーションをやる時に、広告代理店が販促費を出して入口に新しい商品を大量に並べたりすることができます。しかし商店街ではそういうことを取り仕切っている会社がありませんでした。
商店街でもイベントをやりたいというニーズはあったので、僕たちの商店街ネットワークを活かしてお手伝いしていくことにしました。
商店街から公官庁、シンクタンクまでを巻き込み多数のプロジェクトを推進
例えばジャパンプレミア(日本で初公開となる試写会)を路上にレッドカーペット引いてやりたいという話をもらった時は、当時の経産省と共同研究のプロジェクトとして立ち上げて進めました。海外の規制緩和要件を調べて、国交省や警察庁を巻き込んだ会議をやってもらうことで、どうにかこれを実現しました。
するとこれがヒットして、いろんな会社から依頼が来て、お金が回るようになってきました。他にも携帯キャリアからタッチアンドトライを公道でやりたいという依頼があったり、歩行者天国で宣伝をしたいという企業が出てきたりしました。ショッピングモールなら共有部も私有地なので好きにできるのですが、商店街のような場所では難しかったのです。
また、海外の都市再生政策等に関するリサーチをやってまとめていたのですが、それもシンクタンクから需要があり、依頼を受けてリサーチしていました。
会社の財布は潤うも、大げんかして社長辞任
これらの事業によって業績がやっと形になってきて、私も真っ当な役員報酬を取れるようになりました。これまで儲からなくて揉めてきたので、これで一安心のはずだったのですが、今度は儲かったら儲かったで「なんぼくれんのじゃ」と言う話になってきました。
若かりし僕は頭にきて、大げんかをして会社を四年目でやめることになりました。早稲田の商店街と関わっているなら誰でも出資できるという方法を選んでしまったことが失敗だったと思っています。今でも一緒にビジネスをする素晴らしい方もいますけど、今生の別れになった人もたくさんいます。
会社をやめたあとは二年間大学院にいくことを選択しました。そこで地方や海外のモデルをもっと研究してそこから紐解いた結果、さっきの地元で信用できる会社と合弁の会社を一個一個作っていくっていうスタイルに変えることになりました。