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お店ラジオ 2024/05/16 2024/05/22

世界的なスニーカーブームは日本から

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「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を再編集したものです

今回のゲストは、1996年に脱サラし、裏原宿にスニーカーの並行輸入店「チャプター(CHAPTER)」を開店。独自のアイディアでビジネスを軌道に乗せ、2000年に「アトモス」をオープン。「ナイキ(NIKE)」などとのコラボにより事業を拡大し、その後、有名な大塚のおにぎり屋「ぼんご」の右近由美子さんとの出会いを機に、会社を売却しおにぎり屋を開業、「ぼんご」の伝統を守りながら新しいおにぎりにチャレンジする、おにぎり専門店 まんま オーナー 本明秀文さんです。

「チャプター」「アトモス」開業の経緯と有名ブランドとのコラボやヒットの予兆の見つけ方、共感を得る方法。おにぎり屋を始めたきっかけ、特別な価値による成功の法則、おにぎり屋の拡大と多店舗展開の戦略、新たな食のスタイルを提案するおにぎりなどについて3回に分けてお話しいただきます。

第1回は、スニーカーショップの開業と拡大、ヒットの予兆の見つけ方などについてお送りします。

 

この記事の目次

 

フリーマーケットからスニーカーショップへ

私は今、おにぎり専門店 「まんま」のオーナーとして、美味しいおにぎりを皆さんに提供しています。しかし、実はそれ以前は25年間もスニーカー業界にどっぷり浸かっていました。最初に1996年に裏原宿に「チャプター」というスニーカーショップをオープンし、その後2000年に「アトモス」を立ち上げました。

「アトモス」は最終的に売却してしまいましたが、スニーカーとの関わりは私の人生にとって大きな転機となりました。当時、私のショップのコンセプトは“ありそうでない靴を集める”こと。ありきたりではなく、ちょっと珍しい、こだわりのあるスニーカーをセレクトしていました。

スニーカーの世界に足を踏み入れるきっかけは、フリーマーケットでした。私は当時、商社で働いていましたが、給料の手取りが16万8千円と少なく、週末は代々木のフリーマーケットで副業をしていました。ある時、中学生の頃に買った2,900円のフランス製の靴をフリーマーケットで販売したところ、なんと2万円で売れたのです。

これは商売になる!と直感した私は、すぐにアメリカへ飛びました。フィラデルフィアには、日本では珍しい靴がたくさんありました。アメリカで20ドルで買ったものを日本で売ると3万円から4万円で売れるのです。この価格差に目をつけた私は、日本でスニーカーショップを開くことをにしました。

 

有名ブランドとのコラボレーションで事業を拡大

当時から、熱心なスニーカーマニアの中には1,500足以上のコレクションを持つ方もいて、その海外のスニーカーにプレミア価格がつくことも珍しくありませんでした。そうした現象を目の当たりにした私は、“自分でもスニーカーショップを開きたい!”という思いが強くなり、実店舗を構えることにしたのです。

当初は、実店舗と電話による通信販売を並行して行っていました。しかし、並行輸入品を販売するだけでは限界があると考え、さらなる成長のために、NIKE、Adidas、PUMAなどのメーカーから直接仕入れるようになりました。

ただ、どこにでもあるような商品を販売しても売れません。そこで、他店では手に入らないようなスニーカーをメーカーと直接交渉し、共同で開発する道を選びました。その結果、私たちの店は別注モデルを多く取り扱うようになりました。ロジャー・フェデラー、ジョーダンブランド、ナイキエアマックスなどとのコラボレーションは、特に印象深いものです。

 

スニーカーブームの火付け役〜日本から世界へ〜

当初、当店で別注したスニーカーは、すぐに完売し、1万円の商品が2、3万円に跳ね上がるほどの人気でした。しかし、それは一部のマニアの間での出来事で、日本全体での販売数はそれほど多くありませんでした。日本の限られたマニアだけが集めるようなニッチな世界でしたが、日本は、他国よりもバリエーションやカラーが豊富で、凝ったデザインのスニーカーが数多く存在していました。

転機が訪れたのは、しばらく経ってからのことで、海外のヒップホップアーティストや有名人が、私たちの別注スニーカーを履き始めたのです。そして、海外の有名人が履くようになると、スニーカーブームに火が付き、1万5千円の商品が10万円、15万円にまで高騰するなど、ブームが一気に日本国内、世界へと広がっていきました。現在の世界的なスニーカーブームは日本から始まったのです。

当時の海外の有名人が履いてくれたきっかけも、私たちが仕掛けたわけではありません。当時の原宿には海外からも多くの著名人が訪れていて、エリック・クラプトンやカール・ルイスも来店したことがあり、驚いたことを覚えています。

当初は日本人がアメリカからスニーカーを買い付けて日本で販売していましたが、その後は逆転現象が起こり、日本で販売されているスニーカーをアメリカで高く売るために、海外からわざわざ日本に買いに来るようになったのです。

 

ナイキとのコラボと大ヒット

私はアメリカにいた頃からずっとナイキを愛用していました。日本でも昔からナイキはアメリカの匂いがして人気でしたが、今ほどではなかったように思います。

ある日、ナイキに勤める日系アメリカ人の友人マーカスから、「どんな靴が売れると思う?絵を描いてみてよ」と言われました。そこで私はスニーカーのデザイン画を描き、素材や色も指定しました。2ヶ月後、サンプルが出来上がりましたが、私がオーダーしたことを誰も知りませんでしたので、商品が入荷した時、「これは何だ?」と大騒ぎになりました。私はナイキに呼び出され、2時間以上も怒られました。

しかし、その商品は非常に好評で、3日間ずっと行列が絶えませんでした。売れる靴でも頑張って1日に1,000足売るのが限界で、その商品は2色で合計3,000足でしたが、3日間行列が絶えることはありませんでした。

 

成功と停滞

私は家族で始めたお店で、初年度に7億円、次の年には14億円の売上を達成することができました。在庫ビジネスのリスクを回避しながら順調に業績を伸ばし、従業員を雇った後も20億円規模のビジネスに成長しました。

その結果、経済的に余裕が生まれ、約10年間は“ぼ〜”っと商売を続けていました。しかし、ある時、スターバックスで母親に「このままではいつか破綻する」と怒られ、それじゃあ頑張ろうかと、真面目に商売することにしたのです。

一生懸命商売をしていると、”どこに道が通っているのか”、つまり成功へのポイントが見えてきます。例えば、ある靴が売れるという確信が持てる瞬間があります。通常は5,000足しか注文しないところを、確信がある時は1万足、2万足、時にはナイキに一品番で5万足注文することもありました。勝負どころを見極めて、思い切った行動に出ることで大きな成果を得られるのです。

 

ヒットの予兆の見つけ方

商売はギャンブルではありませんので、日々の売れ筋商品を確認するだけでなく、お客様の行動を注意深く観察することが重要です。例えば、10人のお客様が来店したとして、その時は売れなくても、多くの人が手に取る靴があります。そのような商品は、しばらくすると売れ始める傾向があります。

例えば、厚底靴を売っているとすると、最初は珍しさから手に取る人はいても、全く売れません。ところが、ある瞬間から一気に売れ始めることがあります。誰かが購入して街中で履いているのを見た人が増えると、一気にブレイクするするのです。最初は少しずつ売れて、その後急激に伸びるのです。売れなくても新しい商品を手に取る行為がブレイクの兆しなのです。

このようなお客様の行動はPOSデータには現れません。そのため、店舗スタッフにはお客様の行動を注意深く観察するよう指導していました。私自身も事務所にいるのが嫌いで、常に店舗にいたり、街中で人々の持ち物や服装を観察していました。

お客様の行動を注意深く観察し、売れる商品の兆しを見逃さないことが、商売の成功のポイントなのです。

第1回は、スニーカーショップの開業と拡大、ヒットの予兆の見つけ方などについてお送りしました。
第2回は、お店を繁盛させる秘訣や面白いことの大切さ、特別な価値による成功の法則などについてお送りします。

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