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「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を再編集したものです。
今回のゲストは、1911年にのし贈答用品屋として創業し、1951年に手芸用品の問屋を始めた事業を継承。承継したタイミングで小売業へ業態を転換し、「手芸センタードリーム」を岡山に出店。以降岡山から広島、四国、関西、そして全国に店舗を拡大し、現在は全国に100店舗以上を展開する、小野株式会社 代表取締役社長 小野兼資さんです。
手芸問屋から小売店へと業態転換し郊外型の大型店「手芸センタードリーム」を出店、さらに、岡山から広島、四国、さらには関西への店舗拡大した経緯や、「丁寧な生活を提案する」ドリーム独自の教販一体のビジネス戦略と店舗 DX、プライベート商品の製造や事業承継についてなど、3回に分けてお話しいただきます。
第1回は、手芸問屋から小売店「ドリーム」へ、「教販一体」のビジネスモデルについてお送りします。
この記事の目次
小野株式会社~老舗手芸問屋から小売店へ
小野株式会社は、1911年に香川県の高松でのし贈答用品屋として創業しました。2代目が手芸問屋を始めました。四国は島国ですので、霧が出るとフェリーが出ないなど物流に課題を抱えていましたので、当時、私たちが東京や大阪のメーカーから商品を仕入れて販売するという、物流機能とデリバリー機能を備えた問屋を、祖父と父が20人くらいの会社でやっていました。
そして、平成元年に4代目である私が、小売業である「手芸センタードリーム」の店舗展開を開始し、現在は、手芸センター「ドリーム」のチェーン展開やヘルスケア事業、ギフト事業などを行っています。「ドリーム」は現在、全国に100店舗以上を展開しており、手芸教室なども行っています。
時代の変化への対応:瀬戸内海を渡ったドリーム
私は3人兄弟の次男として生まれました。幼い頃から、祖母から家業を継ぐように言われ続け、私自身もそう思って父の会社で働いていました。しかし、「そうは問屋が卸さない」ということわざがあるように、商売は予想通りには進まないことがあります。量販店の台頭により、徐々に問屋の役割が薄れてきていました。そうした状況の中で、私は社長である父に小売業への進出を提案しました。
しかし、父には小売店との関係が悪くなるため、「四国や香川県ではやるな」と言われました。そこで私は県外へ目を向けました。岡山は人口約50万人という大きな市場があり、倉敷も含めるとさらに広がります。そこで、私たちは「手芸センタードリーム」という名前の郊外型の大型店舗を開くことにしました。
当時、小売店や手芸店の多くは商店街や駅前に軒を連ねていました。お店も小規模で、毛糸、ボタン、糸、ミシンなど、専門性を持った分野ごとに分かれていました。そんな時代に、私は品揃えを豊富にし、一気通貫したお店を作りたいと考え、ロードサイドの郊外型店舗を出店したいと考えました。
最初に立ち上げた店舗は100坪の広さを持ち、20台から30台の駐車スペースを確保しました。1989年当時、女性向けの大型郊外店はまだ珍しく、女性向け市場においては新しい試みでした。1店舗で生地や糸、ボタンを購入して1つの洋服が完成するようなお店です。
この一貫したサービスを提供するためには広い店舗が必要でしたし、高額な駅前や商店街の家賃を避けるため、私たちは郊外を選びました。
岡山での挑戦「ドリーム」第1号店
私の父は、お金を使うことを非常に嫌う、慎重で堅実な人で、社員の新しいアイデアもほとんど採用してきませんでした。しかし、息子である私が提案した岡山での300坪の土地拡張と新店舗建設の計画は、驚くべきことに彼の許可を得ることができました。この時社内で、「社員の意見は却下しても、息子の言うことは聞くのか」と言われました。私は社長である父親の許可を得て、岡山での出店準備を始めました。
100坪の店舗と200坪の駐車場を予定していたため、田んぼを借りて土地を造成し、建物を建設しました。当社にとっては大規模な投資であり、失敗すると本業にも大きな影響があるため、これは単なるサイドビジネスではなく、全力を注いだ事業でした。
父は、「心配していない」と言いつつも、「広告費や人件費がこんなにかかるのか」と心配の色を隠せませんでした。それでも、従来の問屋業と違い、小売業では毎日現金が手に入るため資金繰りには喜んでいたようです。
丁寧な生活を提案し、楽しい消費を喚起する
開店当初は認知もされていないため、非常に厳しい状況になると考えていました。まずお客様に認知していただくため、大規模なチラシ配布や割引キャンペーン、年中無休での営業、テレビCMの放映など、考えられることを全て行いました。結果、駐車場が溢れるほどのお客様を迎えることができました。
さらに、オープン時だけでなく継続的にお客様に来ていただくため、定期的にチラシを配布したり、冬にはセーター編み、春には入園・入学用のレッスンバッグやシューズ入れの作成を提案したりするなど、季節に応じたさまざまなアイデアをお客様に提案しました。こうした提案を通して、「楽しい消費」を喚起していきました。
お客様の中には、編み物や縫い物が好きな方、刺繍、レース作り、ビーズ作りが好きな方など、それぞれの分野にコアなお客様がいらっしゃいますし、初心者の方もいらっしゃいます。私たちはそれぞれのお客様のニーズに応えるため、店舗内に教室も設け、「丁寧な生活を提案する」と言うキャッチコピーで、お客様にサービスを提供しています。
教室と販売の一体化による「教販一体」のビジネスモデル
私たちのお店の教室では、お店のスタッフが「今日はこのレッスンバックをお子様に作りませんか?」とお客様に提案し、裁断からミシン掛けなどを1時間ほどで教えます。参加された方には自分で作ることの喜びを感じていただけますし、家で作るための2つ目の材料を買って帰って作られる方もいらっしゃいます。
私たちはこうして、教室と販売を一体化させ教販一体でお客様との結びつきを築いています。
教育と販売を一体化させた教販一体のビジネスモデルは、人件費や場所代といったコストがかかるため収益性は低いですが、来店された一般のお客様が店内の教室で教える様子を見ることで、「この店はただ売るだけでなくちゃんとサポートもしてくれる、売りっぱなしのお店ではない」と感じていただけるため、お店に対する印象も良くなります。
お客様が新しいことを学び、出来なかったことができるようになると、継続して商品を購入していただけるようになります。ブランドアピールの点からも、教室を持つということはプラスになると考えています。
岡山県内での店舗拡大と四国への出店
岡山市内に第一号店をオープンして半年後に岡山県倉敷市の水島に2店舗目を出店しました。その際も、オープン時にはテレビ広告を大量に投入しました。それ以降、岡山県内でのブランド認知を高めるため、ドミナントで半年に1店舗のペースで出店していきました。
そして、岡山から広島、四国へ広げていきました。当初、四国での店舗展開は想定していませんでしたが、私たちが岡山などで店舗展開している間に他の企業が四国への出店を始めましたので、私たちも四国への出店を決めました。実は、私たちが岡山へ出店した時に、地元の小売店からは敵視され、卸売業務にも大きな影響が出ていました。卸売の売上はほぼゼロに近くなってしまっていたのです。
また、その当時の商圏は、人口10万人に1店舗が基準でしたが、残念ながら最近は、ユニクロやニトリのような安価で質の高い製品が豊富に市場に出回り、人口20万人から30万人に1店舗に基準を広げないと採算ベースが厳しくなってきています。また、私たちの場合、出店のための投資は約5年で回収することを目指しています。
第1回は、手芸問屋から小売店「ドリーム」へ、「教販一体」のビジネスモデルについてお送りしました。
第2回は、関西への出店の課題とプライベート商品、“ついで買い“についてお送りしました。