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「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を再編集したものです。
今回のゲストは、大学在学中に古着屋の魅力に惹かれ、就職後2年で仕事を辞め、古着屋の道に進み、オーストラリアでのワーキングホリデー中に仕入れた靴を販売するショップを開き、仲間とともに「JAM TRADING」の原型を構築。2007年に現在の株式会社JAM TRADINGを設立し、以降、独自の仕入れスタイルと多様なブランド戦略により、店舗拡大を続ける、株式会社JAM TRADING 代表取締役 福嶋政憲さんです。
古着に惹かれ、その世界に引き込まれるように海外へ。そして、ワーキングホリデーで集めた靴を販売するショップを出店、その後のパートナーとの出会いやネット戦略で成功。2007年「株式会社 JAM TRADING」を設立し、「古着屋JAM」を出店するまでの経緯や、独自の多様なブランド戦略、社員教育、在庫管理と仕入れ戦略、インターネットと実店舗との連携についてなど、3回に分けてお送りします。
第1回は、古着との出会いやオーストラリアでのビジネススタート、相棒と出会いやヤフオクの成功などについてお送りします。
この記事の目次
古着を着る生活の楽しさ、奥深さ、魅力を発信
株式会社JAM TRADINGは2007年12月に創業しました。
当社は海外の古着、アンティーク家具、雑貨などを取り扱い、今期で17期目を迎えます。現在は、「今日をもっとワクワクする」をコンセプトに、古着を着る生活の楽しさ、奥深さ、魅力を発信しており、「古着屋JAM」のほか、4つのブランドを展開しています。
私たちが創業した2007年には、古着屋は既に定着しており、大阪のアメリカ村にも多くの有名店がありました。中には大手の古着屋もあり、私たちはその後を追う形でスタートしました。また、当社では、古着取り扱い方法は買取ではなく、海外で買い付けて日本で販売するというスタイルを採用しています。
私が古着屋を商売として選んだ理由は単純で、古着屋がカッコいいと思ったからでした。古着屋に興味を持ったのは学生時代で、その時に訪れた古着屋の魅力に強く惹かれていました。
私は古着屋に憧れを抱きながら大学を卒業し、服飾の縫製メーカーに就職しました。
東京と大阪で約2年間働き、特に東京での勤務中に原宿の古着屋を訪れるたび、自分も古着屋を開業したいという気持ちが強くなっていきました。そして、退職後のビジネスプランやビジョンも持たないまま、仕事を辞めることにしました。
オーストラリアでスタートした古着屋への道
私は会社を辞めた後、大阪に戻りました。しかし、私にはお金もコネも経験もなかったため、まずはお金を貯めることに専念することにして、朝は派遣の仕事でビールサーバーの清掃などを行い、夜は鳥貴族で働きました。当時の鳥貴族はまだ10数店舗程度で、大倉社長が現場に来ることもありました。現在でも大倉社長とはお付き合いが続いています。
鳥貴族で働いていた時、私は6歳年下の後輩と出会いました。彼はカナダに留学するために鳥貴族で働き、お金が貯まった1年後にカナダに留学しました。彼が留学して3ヶ月後、私はカナダの彼の元を訪れ、ニューヨークやロサンゼルスも巡りました。
私はこの旅行を通じて、海外での生活を経験したいという気持ちが強まり、オーストラリアへワーキングホリデーに行くことにしました。
オーストラリアはイギリス文化が色濃く反映されていて、フリーマーケットではドクターマーチンや革ジャン、Tシャツなどのパンクスタイルの商品が多く見られました。そして、私は毎週フリーマーケットに通い、古着などを買い貯めていくようになりました。
古着を購入するにあたっては、日本の友人に連絡し、古着屋での人気商品や売れ筋のTシャツについての情報を集めながらマーケティングを行いました。さらに、フリーマーケットだけでなく、リサイクルショップでも古着を購入しました。購入した古着は50箱にまでなり、購入した古着と一緒に日本に帰国し、物件探しのためアメリカ村の不動産屋に飛び込みました。
大阪での最初の出店とヤフオクでの販売
大阪の心斎橋にあるビッグステップという商業施設の裏手に、1階で3坪、家賃は月額5万5千円の小さな物件がありました。私は、この物件で最初のお店を開くことにし、オーストラリアで購入した50箱の商品を陳列して店舗をスタートさせました。
しかし、最初はなかなか商品が売れませんでした。お店はビルの奥にあり、少し怪しい雰囲気もあったため、お客さんは店の外から奥を覗くだけで引き返してしまい、店内まで足を運んでくれません。当時の売上ノートには、初月の売上が約30万円と記録されています。しかし、その時は、オーストラリアで仕入れた商品を販売していた時期でしたので、私にとっては上々のスタートでした。
その雑居ビルには人気のお店もいくつか入っていたため、ビルを回遊するお客さんが徐々に寄ってくれるようになり、売上も上がっていきました。
当時は、お店の売上は少しずつ増えていましたが、ヤフオクにも力を入れていて、そちらの方が順調に伸びてきた頃でもありました。私たちはお店の商品をヤフオクにも同時出品する「ヤフオク戦法」を取ることにしました。ヤフオクでは3,000円、4,000円、時には10,000円以上で落札されることもありました。当時はこれにより、売上を伸ばすことができました。
アメリカ村での差別化戦略
アメリカ村は古着屋が集まるエリアであり競合が多いため、差別化が必要だと感じました。しかし、私のお店は小さなお店でしたので、単独での差別化は難しいと判断し、同じような古着屋同士でグループを作ることにしました。
そして、このグループでアメ村マップを作成し、私たちのお店やたこ焼き屋など、グループ内の店舗をマップに掲載することにし、お客さんがグループを組んだ5店舗ほどを回遊するよう促しました。
アメリカ村は多くの常連客が訪れる場所ですが、観光スポットとしての側面もあります。偶然入ったお店で「次はこういうお店に行くと良いよ」と情報を得られると、お客さんは入りにくいお店でも足を運びやすくなります。
さらに、お店自体の差別化も図りました。小さなお店ではオーナーや店長の個性が強く出るため、私は狭い空間で1対1の丁寧な接客を心がけました。お客さんと長時間話し込むことも多く、時には「コーヒーを奢るからもう少し話そうよ」と誘うこともありました。
新たなパートナーシップとJAM TRADINGの原型
私が最初のお店を経営している時期に、現在の相棒となる彼がよく遊びに来ていました。彼は他の古着屋のスタッフでしたが、頻繁に私のお店に通ってくれていました。やがて彼自身もお店をオープンし、私たちは一緒に買い付けに行くようになりました。
それぞれのお店が同じ地域にある私たちが一緒に買い付けに行くと、同じ場所で仕入れるため、商品の傾向などが似通っており、買い付ける商品も同じようなものになることが多々ありました。
また、多くの商品を仕入れる際には、特定の古着ディーラーに集まってもらい、一度に大量に買い付けるようにしました。例えば、1人で50万円分を買い付けるよりも、2人で100万円分を買い付ける方がディーラーも真剣に対応してくれます。
そのため、私たちは共同で買い付け、帰国後に商品を分け合う作戦を取りました。これがJAM TRADINGの仕組みの原型になりました。このような協力体制を通じて、私たちはお互いに補完し合いながら事業を拡大していきました。
ヤフオクでの成功とJAM TRADING
私たちはお店の運営と並行して、ヤフオクにもドクターマーチンのブーツなどの商品を大量に出品していました。しかし、同じ仕入れ先から同じ価格帯の商品を出品することで、入札者が次々と安い商品に移り、平均価格が下がってしまうことが問題でした。
そこで、2人で相談し、戦略的に出品することにし、そして、いっそのこと一緒にやろうということになったのです。これが現在のJAM TRADINGのスタートです。
当時の私たちは店舗よりも、ヤフオクをベースに売り上げを上げていくことに注力しました。お店の売り上げは最初の月が30万円ほどで、1〜2年後には80万円くらいになりましたが、それでも2店舗目を出すには不十分でしたが、ヤフオクでは出品すればするほど売れ現金化されていくため、相棒が海外から仕入れてきた商品を私が全てヤフオクで売り、そのお金を海外に送り、再び仕入れるというサイクルを確立しました。
ヤフオクでの売り上げは店舗を上回り、始めて1〜2年後には月に1,000万円ほどになりました。
第1回は、古着との出会いやオーストラリアでのビジネススタート、相棒と出会いやヤフオクの成功などについてお送りしました。
第2回は、楽天への挑戦と成功、「古着屋JAM」第1号店、現在のブランド戦略などについてお送りします。