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お店ラジオ 2024/06/28 2024/06/28

安定期の新たな挑戦 〜フレッシュネスバーガー〜

about

「お店ラジオ」は、店舗経営にまつわるトークラジオ番組です。小売店や飲食店など各業界で活躍するゲストをお招きし、インタビュー形式でお届けしています。この記事は、InterFMで毎週日曜日にお送りしている「お店ラジオ」で放送された内容を再編集したものです。

今回のゲストは、1979年に義兄など3人で、ほっかほっか亭を創業、まちなかからロードサイドへ展開する出店戦略により、わずか数年で1000店舗以上に拡大。成長期からから安定期を経て、1992年、「マクドナルド卒業生がモスに行き、モス卒業生がフレッシュネスへ」というコピーで、大人がくつろげるバーガーカフェ「フレッシュネスバーガー」を出店。そして、2012年、20年の節目で会社を売却し、現在は飲食業のトータルプランニングを行いながら、新ビジネスを展開するフライドグリーントマト株式会社 代表取締役 栗原 幹雄さんです。

「ほっかほっか亭」創業のきっかけと成功秘話、拡大の出店戦略と安定。そして安定期の新しいチャレンジ、フレッシュネスバーガーの差別化戦略とプロダクトミックスの工夫。ハンバーガーショップの売却と川越でのお芋専門のカフェでのチャレンジなど、3回に分けてお送りします。

第1回は、義兄からの電話と「ほっかほっか亭」成功の鍵、FCの拡大戦略などについてお送りしました。
第2回は、データと感による出店戦略と成長から安定へ、そして新しいチャレンジなどについてお送りします。

 

この記事の目次

 

データと経験と勘に基づく出店戦略

私がお弁当屋を始めた当初は、いくらバイパス沿いのお店とはいえ周りは田んぼばかりで、売上が日に1万円に届かない日もありました。それでも続けていくうちに徐々に利益が出始め、「東京ならもっと稼げる!」と考えるようになりました。
そこで、台東区を起点にドミナント戦略を実行することにし、区全体を網羅するつもりで物件を探し始めました。

当時、6坪程度の事務所物件が豊富にありましたが、「電車に乗る人はお弁当を持っていかない」と判断し、あえて駅に近いエリアは避け、帰宅時に立ち寄りやすい、駅から少し離れた場所や、商店街の中でも角地を狙って出店しました。お客様にとって、お店から出るときにさっとお弁当を買える場所が最適だと考えたのです。

駅周辺は一見、人通りが多く魅力的に見えますが、お客様の購買力はそれほど高くありません。出店に関しては、人口や平均年収などのデータも参考にすることもありますが、年間100店舗以上を出店してきた経験と勘で予測ができるようになっています。

 

ロードサイド店舗の魅力と成功の要因

創業から1年目、2年目は、商店街などの街中をメインに出店しました。1,000店舗まで街中を中心に出店を続けましたが、それ以降はロードサイドへの出店を増やしていきました。

街中とロードサイドを比較すると、ロードサイドの方が客単価は高いです。東京や大阪以外の地域ではほとんどの人が車を利用しているため、地方では弁当を買うために車で街中に入ることはほとんどありません。地方では牛丼屋などの他のチェーン店でも7割はロードサイドに出店しており、売上が良いのもロードサイド店舗です。

私が最初の会社で現場監督をしていた時の経験ですが、事務所が駅前にあり、現場は郊外にありました。その時、私は移動のほとんどを車で行っていて、管理する現場の半径100キロメートルの範囲は頭の中に地図が入っている状態でした。

現場での仕事が多くなると、混雑を避けるために街中に戻りたくなくなります。私は現場周辺の美味しい店の情報を聞き、お店を巡ることを楽しみにしていました。

 

創業期から成長、そして安定へ

私は創業した25歳から40歳まで、ほっかほっか亭で働きました。創業から店舗が1,000店を超えて経営が安定するまでの間、経理や商品管理、出店などの業務を全て3人で行っていました。
会社の全ての業務を習得しこなしていましたので、人の100倍は働いていたように感じています。その当時は、お世話になっている多くの方に迷惑をかけないよう、一生懸命事務をこなすのに必死でした。

ほっかほっか亭は創業から成長、リストラ、そして安定という流れを全て経験し、その間に事務所は7回引っ越しました。私がいた時の最後の事務所はレインボーブリッジの近くで、景色は良かったものの、その頃の会社は安定し、私のやることがなくなってしまいました。それが安定期です。
13年で組織は熟成し、私自身がそのスピードについていけなくなりましたが、組織は成長し続け、優秀な人材も集まり、私の役割は減っていきました。

 

安定期の新たな挑戦

役割が減ってきたと感じていたある日、千駄ヶ谷の不動産屋に飛び込みで入り、ほっかほっか亭の物件を探していました。その時、不動産屋から困っている物件があると言われたのです。その物件は代々木上原駅と駒場東大前駅の中間に位置し、私の家のすぐ近くで、通行人も少ない場所でした。私はその場所を知っていて、雰囲気がとても良いと思っていたので、15万円でその物件を貸してくれるという話にとても興奮したのを覚えています。

その建物は、見た目は普通の家でしたが、私は下見板張りの外観を改修すれば、アメリカ風の店舗ができるのではないかと考えました。そして、その日は会社に戻らず家に帰り夜中までハンバーガーショップの構想を練りました。今でもその絵を持っていて、見なくてもはっきりと描くことができます。

しかし、私はハンバーガー屋をやりたい、ハンバーガー屋をやったら儲かると思っていたわけではありませんでした。また、私の場合、物件ファーストで、物件に合う業態を考えるのが常で、その時もハンバーガー屋をやりたいと思ってその物件を選んだわけではありませんでした。

物件ファーストの思考は、私自身の生い立ちが影響しているのかもしれません。私は昭和26年に米軍入間基地の近くの楽器屋で生まれました。楽器屋にはピアノがあり、小学生の頃から米軍の方が弾きに来ていたため、戦後6年であっても外国人との触れ合いが多く、海外の雰囲気に触れることができました。

 

 

後発の挑戦:フレッシュネスバーガーの誕生

1992年、その物件に出会いフレッシュネスバーガーを思いついた時、すでに現在のハンバーガーチェーンは出揃っていました。私たちは超後発であったため、差別化が必要でした。

例えば、アメリカのマクドナルドは、店舗に庭がありキャラクターも多く、当時は「お母さんマックへ連れてって」というマーケティングで人気がありました。
そのため、アメリカでもオーストラリアでも「マックの”M”を見せずに帰ろう」というキャンペーンがあったほどです。日本でもファミリーセットがあり、子供を連れて行く場としての雰囲気がありました。

そして、日本には素早く作ってスピーディーに商品を提供し、丁寧な接客でセット商品を売るという業態しかなかったため、私たちは「マクドナルド卒業生がモスに行き、モス卒業生がフレッシュネスへ」というキャッチコピーで、大人向けのハンバーガーとして展開することにしました。

フレッシュネスバーガーのコンセプトを考えた時、ライバルはモスバーガーしかいないと考えていました。しかし、実際にお店を出すと、ハンバーガーに関してはやはり皆さんマクドナルドのイメージを持たれており、「遅い」などのクレームが多かったです。そのため、ハンバーガーに対するマクドナルドのイメージを払拭するのは大変だと感じました。

 

差別化戦略とプロダクトミックスの工夫

私たちは、ハンバーガーに対するマクドナルドのイメージを払拭し、モスバーガーに対抗するためには、差別化が必要だと改めて強く感じました。また、ベンチャーでは大手には勝てないと思っていましたので、「マクドナルド卒業生がモスに行き、モス卒業生がフレッシュネスへ」というキャッチコピーを作り、「大人がくつろげるバーガーカフェ」というコンセプトを打ち出したのです。

ハンバーガーに関しては原価を高くしてでも他店よりも良いものを提供し、ドリンクは原価率が低いため、プロダクトミックスで全体の原価率を調整する方法を取りました。例えば、ドリンクの原価率が14%であれば、ハンバーガーの原価率が50%を超えても良いという考えで、結果的に全体の原価率を30%に落ち着かせるという戦略です。

また、当時は競争が激しく、どこでもセットで安売りをしていましたが、我々は逆の路線を取りました。スターバックスが将来日本に来ることを見越して、ドリンクはエスプレッソにし、セット販売はせず単品販売に徹しました。セット販売をしてしまうと、コンセプトが崩れてしまうと考えたからです。私はコンセプトや物語に対して強い思いを持っています。この強い思いが、フレッシュネスバーガーの成功に繋がったのだと思います。

第2回は、データと感による出店戦略と成長から安定へ、そして新しいチャレンジなどについてお送りしました。
第3回は、フレッシュネスバーガーの出店と拡大、そして、お芋専門カフェへの新しい挑戦などについてお送りします。

 

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